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剱沢(再訪)

寒気の流入する10月後半の朝、私は再び剱沢大滝の前に立っていた。

前回の遡行からまだ2週間しか経っていない。早過ぎることは分かっていた。ただ、自分の気持ちに正直になれば、今一番行きたい沢はこの剱沢だったのだ。
普段よほどのことがない限り、一度行った沢にまた行こうとは思わない。ましてや同シーズンに。

前回の遡行でこの沢にはまだ大きな可能性が残されていることを知った。
それは、できる限り水線を辿る、最も美しく、完璧と言えるライン。日本最高の沢にそれが残されているのは、奇跡のように思えた。

その可能性に一刻も早く挑戦したい。行くなら気持ちの高まっている今この時だ。今までにない情熱が湧き上がり、私を再びこの地に向かわせた。

実際のところ、少なからず迷いはあった。あの死地に再び足を踏み入れることに抵抗のない人間はいない。
ただ、大滝を前に、それまで漠然と心を覆っていたものが消えた。ようやく挑戦する覚悟ができたようだ。

自分の理想を叶えるため、運命の登攀を開始した。

 

10月26日(曇り時々晴れ)

早朝、扇沢から周りの山並みを見渡すと、どの山も白く雪化粧で覆われていた。昨日からの寒気の流入によるものだ。少なくとも明日まではその影響下にあるだろう。
寒い遡行を思うと足取りは軽くないが、天気が良いことを救いに、気を取り直してトロリーバスに乗り込む。

黒部ダムから黒部川左岸沿いを走る旧日電歩道は、登山道崩壊のために通行止めになっていた。全く意に介さず入っていくが、十字峡を目前にして現われたのは思いも寄らぬ大崩壊地帯。山肌の急なスラブが剥き出しになり、30mに渡って登山道が寸断されている。

やむを得ず潅木帯から巻くことにするが、20mも登らないうちに岩壁帯に阻まれてしまった。黒部の側壁はそう簡単には巻かせてくれないらしい。
面倒な巻きをやめ、振り子トラバースで越えることにする。ロープが足りるか心配だったが、40mぎりぎりで反対側の登山道に乗り移ることができた。

「今回は剱沢に拒絶されているのではないか・・。」 そんな考えが頭をよぎり、気後れしている心に拍車を掛ける。正直今回は、意気揚々と遡行に向かう気分ではなかった。

一番の原因は、先週の称名川で痛めた右手親指の腱。物を掴むだけで痛みが走り、もしゴルジュ内で悪化すれば、窮地に立たされることになりかねない。加えて、前回の剱沢遡行で痛めた右足首も気になる。
以前より難しいことに挑戦しようとしているのに、体の状態が万全でないのは少なからず不安だった。

しかし、この機会を逃したら次はいつになるか分からない。来年、数年後、もしくは一生行けなくなることもあり得る。
全ては気持ち次第だからだ。特に命を賭けた遡行となるこの沢の場合、それなりに強い気持ちを保っていなければ行動に移せない。
行きたいと思う気持ちが一番強い時に行かなければ、夢を実現させることが難しくなる。最後のチャンスに挑むくらいの覚悟で、剱沢へと向かった。

十字峡からは右岸尾根の踏跡に入る。前回外した通常のアプローチルートを辿ろうとするが、やはり途中で分からなくなる。適当に尾根を下降し、懸垂下降20m×2回でルンゼに降り立った(ルンゼには古い残置ロープあり)。

本流に入ると、谷全体から受ける印象が以前とは違った。
明らかに水量が少なく、前回ほどの威圧感がない。おそらくこれが本来の水量なのだろう。少しホッとした。前回が10月の標準だったら、夏の遡行は不可能に近い。

できるだけ以前と違うラインで進み、14時過ぎに剱沢平に到着。
まだ時間は早いが、本日の行動を終えることにする。今回は時間に追われず、じっくりとI滝に取り組みたいからだ。
勝負を明日へ回し、運命の時を待つ。

夜はやはり冷え込みが厳しく、川原でビバークは失敗だった。シュラフが湿気を帯び、徐々に保温性が奪われていく。雲一つない星空が、唯一明日への希望を持たせてくれた。

 

10月27日(快晴)

朝方、シュラフから顔を出すと、周囲には霜が降りていた。しかし、寒気に耐えるのも今日までと思えば、天気が良い分、気は楽だ。

最初の難関である3m滝で、じっくりとルートファインディング。実は前回右壁を登れなかったのが、ずっと心に引っ掛かっていた。自分の気持ちの問題ではなかったのかと・・。
しかし、改めて見てもやはり右壁には取り付くことさえできない。前回の判断が合っていたことを確認し、疑問が一つ解決する。
前回同様飛び石で右岸に渡るが、決死の覚悟で渡ったのが何だったのかと思うくらい簡単に渡れて拍子抜けした。

3m滝の釜を泳ぎ、左の流水をまたいでステミング登攀。前回苦戦した激流渡渉のポイントに来るが、やはり流れが強く、手掛かりなしでは渡れない。
しかし、今回はその下流を渡渉することができ、ボルトを利用しなくても先に進むことができた。水量次第でこれほど変わるとは・・。

そして大滝との再会。気持ち良く朝日が差し込み、釜には美しく虹が掛かっている。左岸への渡渉も容易で、以前のようなプレッシャーはない。
今回の目標の一つであるI滝登攀の新ルートを見定める。可能性を感じるのは、右壁バンドから凹状スラブを横切り、落ち口上の潅木帯に抜けるラインだ。
果たして実際に行けるのか・・。未知の試みに高まる緊張感を抑え、覚悟を決めて登攀に取り掛かった。

まずはアンカーの作成から始めるが、前回ハーケンを打ったリスは再利用できず、周りにも全くリスがないため、やむを得ずボルトを一本打つことにした。
ハンマーを振るうたびに走る親指の痛みが悩ましい。手を抜きすぎたせいか、ボルトは芯のチップが見えるほどの浅打ちになってしまった。
アンカーとしては心許ないが、要は落ちなければいいだけのこと。かまわず、登攀をスタートした。

 

1P目:40m(Ⅳ)

垂壁に走る草付バンドを左上する。中間部のブランクセクション(足元のバンドはある)までに残置ハーケンを3本発見。また、ブランクセクション手前には、6mほど上部の潅木帯から残置ロープが空中にぶら下がっていた。
側壁はどう見ても普通に登れるような壁ではなく、ライン的に見ても明らかに不自然。過去にここで行き詰まったパーティーが、ノーマルルートを登っていた別パーティーにロープを垂らしてもらった跡だろうか・・。これ以降に残置支点の存在は見受けられなかった。

一見バランスが悪く、難しそうに見えたブランクセクションは、細かいアンダーホールドを使うことであっさりと通過することができた。潅木を回り込んだ所にクラックがあり、カムをきめてピッチを切る。

 

2P目:35m(Ⅳ)

凹状のスラブ壁を左上する。見た目は悪そうだが、硬くしっかりした岩にホールドが点在し、快適な登攀だ。ただし、中間支点がほとんど取れないためランナウトになる。
最後は潅木帯に入るが、密生していないので登りやすい。I滝落ち口の真上(10mほど上部)に出てピッチを切った。

 

3P目:40m(Ⅲ)

バンドを進めるところまで左にトラバースして、ゴルジュ内の様子を窺う。おそらくこのバンドは、焚き火テラスから懸垂下降で降り立つ側壁バンドまで繋がっていると思われる。
前回見られなかったI滝上部の滝は、2mの噴水状の滝から傾斜の緩いトイ状の流れを経て4m斜瀑へと続いていた。二つの滝に分けて考えることもできるが、二つを合わせて8×12mの滝としたほうが、過去に付いた滝名(H滝)との帳尻が合う。
ゴルジュ内を確認した後は、少し戻って潅木伝いに直上し、安定したテラスまで上がった。

 

4P目:40m(Ⅱ)

ロープが要らないくらいの緩い潅木帯を左上していくと、焚き火テラスに出ることができた。
潅木の葉が落ちて視界が開けている分、前回とはイメージが違い、最初はすぐにそこが焚き火テラスだと気付かなかった。

 

ルート全体を通して特別難しい箇所はなく、岩もしっかりしており、今までこのラインで登られてこなかったのが不思議なくらいだ。
この滝の登攀ルートは、最初に登られた時に、人々の意識の中で固定されてしまったのかもしれない。
新たなラインを引ける可能性があっても、生死を問われるこの峻谷では、それを実践に移すことは難しい。私も前回の遡行では、とても新ルートを開拓する余裕はなかった。

既存ルートに比べると、より滝身に近く、落ち口へ向かって最短経路を通り、硬い岩が主体の快適な登攀ができるルートだった。I滝上部のゴルジュ内を確認しながら登れるのも利点だ。今後はこちらのルートをメインにしていくのが良いのではないだろうか。

狙っていたとはいえ、この滝にこれほどあっさりと新ルートを拓けたのは意外だった。技術よりもむしろ、「このラインを登る!」という確固たる意志が必要だったのだろう。
いずれにしろ、大滝の顔に当たるこのI滝に、自分のラインを引けたのは嬉しかった。

まだ時間は早く、順調に行けば緑の台地まで進むこともできそうだ。ただ、何か一つでも問題が起これば夜間行動になってしまう。無理をせず、今日は焚き火テラスで泊まることにした。
次の側壁トラバースから懸垂下降を行えば、先に進むしかない。その奥には今回一番の難題、D滝の登攀が待ち受けている。
明日はきっと私の命運を分ける遡行になるだろう。

 

10月28日(快晴)

D滝の登攀にどれほどの時間が掛かるか読めないため、早めに出発することにした。
焚き火テラスの横から潅木を支点に懸垂下降。側壁バンドの残置支点に降り立つ。ここから絶壁のトラバースとなるが、実は前回、このピッチで非常に悔しい思いをしている。

中間部のブランクセクションで行き詰まり、思わず残置ロープに頼ってしまったあの敗北感は忘れられない。
ロープに頼らずに越えられる方法が分かった上での使用ならばまだしも、解決しないまま安易にロープにすがってしまった。
それは残置ロープがなければ、通過できなかったかもしれないことを意味し、自分の弱さが完全に露呈した瞬間だった。

同じ残置でも、支点を利用するのとロープを利用するのは明らかに違う。ロープを使った場合、それは自分の力で登攀したとは言えず、人に登らせてもらったことにしかならない。
ここを残置ロープに頼らず、そしてできればフリーで通過するのが、今回の絶対的な目標の一つであり、大きなプレッシャーを感じる要因の一つにもなっていた。

ロープに触れないように慎重にトラバースを開始する。残置支点のラインが一段上がり、見た目にバンドも上がっているように見えるポイントが、例のブランクセクションだ。
実はそこにはあるマジックが隠されていた。よく見ればバンドは上ではなく、一段下に下がっているのだ。

下に回り込むことでブランクセクションをかわし、悪いホールドを繋いで突破する(Ⅴ)。残置だけを追っていては気付かない絶妙なラインだ。
実は前回も下を回りこむ発想はあった。しかし、それを行動に移せずに残置ロープに頼ってしまったのだ。ここをフリーで抜けるラインはそこしかないと踏んでいたので、見事に予想が的中したのは爽快だった。
因縁の課題を果たし、また一つ肩の荷が下りた。

トラバース終了点から斜め懸垂で水際バンドへ降り立つ。もはや以前ほどの緊張感はない。スピーディーに凹角を登攀し、緑の台地へと上がった。
いよいよD滝が近付いてくる。ついにここまで戻ってきた。D滝を前に大きく息を吸い込み、これから始まる冒険に向けての集中力を高める。

D滝に取り付くためには、緑の台地から釜に向かって懸垂下降をするしかない。
支点を取るために、D滝のちょうど正面にあたるテラスで、露岩にボルトを2本打ち込んだ。他に方法がないとはいえ嫌な作業だ。右腕の痛みも悪化し、もうハンマーを振いたくない。

20mで足りると踏んでいたが、投げ入れたロープの末端は虚しく中空を舞っている。やむを得ず3mmの補助ロープを使用し、6mmロープ一本で懸垂下降。
もし、D滝登攀に敗退した場合、この蜘蛛の糸のようなロープを、プルージックで登り返さなければならない。

途中から完全な空中懸垂となり、25mの下降で釜の縁に降り立った。下は川原になっているが、D滝からの瀑風が絶えず吹き付け、全てが濡れた過酷な空間である。
D滝の本当の凄さはここに降りて始めて分かる。上からは滑らかで優しい流れにしか見えなかったが、実際には強烈な厳しさも併せ持っていた。

懸垂下降を終えた時点で、ある疑問の答えも明らかになった。やはりD滝の高さは30mどころではない。
緑の台地からD滝を真っ直ぐ見ると、滝の中上部に視線が行くため、割合から計算すれば少なくとも40mはあるだろう。

沢の形状は日々変化している。流路が変わったり、釜が埋まったり、滝の高さが変わる。何もなかった場所に、突然滝が現われることだってあるのだ。そんな変化は自然界ではごく日常のこと。
過去の情報と照らし合わせ、現在はどのように変わっているのか。そしてそれは何故なのか。自然の変化を目の当たりにし、それに至るまでのエピソードに思いを巡らせるのは楽しい。

だから私はできるだけ正確に記録を残すようにしている。特に情報の少ない沢であればあるほど。そうやって今現在の沢の様子を書き記しておくことが、数年後、数十年後の変化を知るための基準になるからだ。
長らく更新されてこなかった剱沢の情報も、現状をしっかり捉えた上で新たに書き記したいと思う。そのためにはやはり、でき得る限り水線通しで行く必要があるのだ。

「ついに来てしまった・・。」心の底でそんな言葉が響いていた。過去にこの釜に降りた人間はほとんどいない。さらに、ここから登攀した人間にいたってはおそらく皆無。
前人未踏のプレッシャーがのし掛かる。だが、ここまで来た以上もはや逃げることはできない。前回落ち口から見下ろし、「登れる」と確信した自分の判断。ただそれを信用して先に進むしかなかった。

D滝の登攀に入る前に、まずはラインを見定める。取り付けるのは右の垂壁部の一箇所しかない。
バンドに上がって左上した後は、水流右の磨かれた壁、もしくはさらにその右の黒く濡れた壁を登ることになるだろう。取り付きまでの釜が浅いのが幸いだった。

クライミングシューズのまま冷たい釜を渡渉し、右壁の弱点に取り付く。3m上のバンドに上がり、ハーケン2本をアンカーにして、1ピッチ目の登攀を開始した。

 

1P目:25m(Ⅳ・A1)

左に少しトラバースすると、いきなりブランクセクションになった。左上にエッジが見えているが、スタンスがなく、届かせることができない。早くも行き詰まり、予想外の展開に焦りが生じる。

またしてもボルトを打つしかないのかと、ジャンピングで穴を開け始めるが、途中で「右のフェースにルートが取れるのでは?」と、閃きが走る。
磨かれたフェースには、幅10~15cmほどの水平レッジが3本連なり、上部の大きなバンドに繋がっている。しかもレッジには多少ホールドがありそうだ。
いったん穴開け作業を中断し、右のラインを攻めることにする。

最初のレッジにはガバが存在した。ただレッジ以外にホールドはなく、ぶら下がった状態から右足をヒールフックして登るしかない。
一気に体を引き上げ、2段目のレッジに手を延ばす。残念ながら期待していたホールドはなく、外傾したカチでバランスを取りながら、マントルを返すように1段目のレッジに乗り上がった。

3段目のレッジに良いホールドがあれば、おそらく上に抜けられるだろう。しかし、今持っているホールドで、ムーブを起こせるかどうかが問題だ。
唯一使えるレッジ間のスタンスも細かく、信用ならない。左足で慎重にそのスタンスを捉え、ハイステップで右足を右手の外側にある外傾スタンスに置く。いつスリップするか分からないようなツルツルのスタンスだ。

左手で引き付けながらバランスを取って体を引き上げ、レッジに右手を延ばす。が、触れるのは、全く持てないスローパーばかり・・。容赦なく指が弾き返され、絶望の淵へと追いやられる。
諦めずにさらに引き付けて奥を探るが、向きの悪いホールドしかなく、体を引き上げることができない。

レッジ上を流れる冷水が指の感覚を奪い、どんどん腕がパンプしていく。これ以上は無理だ・・。いつ落ちてもおかしくない際どい体勢から、いったんクライムダウンし、仕切り直すことにする。

腕を回復させてもう一度挑戦したが、結局同じポイントで跳ね返された。思い切って体を引き上げられれば終わりなのだろうが、落ちれば下のバンドに激突するため、失敗する確率の高いムーブで突っ込む気にはなれなかった。
これ以上のトライは危険と判断し、素直に諦めることにする。このラインの登攀は本当に難しかった。少なくともⅥ級はあるだろう。

気を取り直してボルト打ち作業を再開。悪い体勢で一本打ち込む。エイドで左上のエッジを捉え、スラブに乗り込んでブランクセクションを越えた。
ガバの続く垂壁を登り、バンドを左にトラバース。安定したテラスでカムを支点にピッチを切る。

先を見上げると、水流右は逆層のスラブで全くホールドがない。登攀の可能性が残されているのは、凹状部を挟んで右の黒く濡れた壁だけだ。
緑の台地からの懸垂ロープを、このピッチの登り返しで回収しようと思っていたが、見るからに悪そうなこの壁を見て、その予定を変更せざるを得なかった。

懸垂ロープは、この隔絶された空間から脱出するための最後の頼みの綱。ある程度登れる確証が持ててからでなければ、回収は命取りになる。この場に閉じ込められてしまうことだけは絶対に避けなければならない。
多少面倒になるが、2ピッチ目の途中まで登って、先の登攀の可能性を見定めてから回収することにした。

ロープを残置してしまえば楽なのだが、それだけはしたくなかった。できるだけ残置物を残さないスタイルにはこだわりたい。
前述の側壁トラバースのように、過大な残置物が、その沢が本来持つ冒険性を大きく損なわせることがある。
ロープがなくてもラインは分かる。遠目には見えなくても、近付けばそこしか辿ることができないのだから・・。

他の沢にも言えることだが、特にこの剱沢では、スタイルを重んじて登られていくべきだと思っている。それはここが、最高の冒険ができる場所だからだ。
この地だけはいつまでもそう在り続けて欲しいと切に願う。

 

2P目:35m(Ⅳ+)

凹状部を境に、左右の壁はあまりにも対照的だった。
左は磨かれた美しい岩壁、右は砂利と泥の上に腐った草が張り付いた悪壁。できれば左を登りたいが、それは叶わぬ夢。現実を見つめて右の壁を登り始める。

一見「こんな壁登れるのか?」という印象だったが、登り出すと意外にホールドがある。岩肌にフリクションがあるのも救いだった。ある程度外傾したスタンスにも乗っていられる。
砂利の下に隠れたホールドを掘り出したり、草の根にホールドを求めたりしながら、D滝の美しいイメージとはまるでかけ離れた泥臭い登攀が続く。

中間支点をろくに取れないまま、最後のカムから中上部の潅木まで10mランナウト。ロープの長さ的にこれ以上登ってはまずい。
懸念の箇所を越え、先の登攀にもある程度の確信を得られたので、ここでいったん下降することにする。

よく見れば潅木には古い残置スリングがあり、上部の岩壁にも残置ボルトの存在が確認できる。おそらく残雪期に右壁の上部を登攀した野村=木下パーティーのものであろう。
雪渓上から壁の途中に取り付いたこのパーティーが、どの辺りから登り始めたかは分からないが、ここより上部は「人に登られている」という事実が残されていた。

ホッとした反面、本当の意味での冒険がここで終わってしまったことに、残念な気持ちにもなった。まだ力を出し尽くしていない。もっと続けたかった・・。
幸いだったのは、残置スリングを発見する前に、下降に入るまでの一連の判断をできたことだ。
「退路を断つ」という最も重大な行動を起こすきっかけが、残置物の存在によるものではなく、自分自身の判断によるもので良かった。

懸垂下降で2P目の取付に戻り、せっかくリードしたばかりのロープを引き抜く。D滝の釜に戻るためには仕方がない。
側壁バンドから18mの懸垂下降で釜に降り立ち、緑の台地の懸垂ロープを回収。1ピッチ目を登り返して、再び2ピッチ目の取付に戻った。

さあ、これで後は先に進むしかない。再度リードで2ピッチ目を登り、潅木から先に繋いでいく。
上部はハング下のスラブを左上。久しぶりの乾いた岩が心地良い。所々現れる潅木には残置スリング(計3本)が残されていた。
落ち口への左上トラバースに入る前に、安定したテラス(残置ボルトと小さな潅木がある)でピッチを切る。

 

3P目:30m(Ⅳ+・A0 )

トラバースを開始すると、すぐにブランクセクションになった。一段張り出したスラブの上に乗り移らなくてはならないが、スタンスがなくて悪い。
ここには工事用アンカーボルトとリングボルトが1本ずつ短い間隔で残されており、おそらく先人はエイドで越えたのであろう。

とりあえずフリーを試みるが、悪過ぎるため(おそらく不可能ではない)、一箇所だけボルトを手掛かりにして越えた。
ホールドの乏しいスラブをバランスクライムで直上し、ハングにぶつかったところ(工事用アンカーボルトあり)で、再び水流に向かってトラバース。
落ち口を間近に見ながら岩の上に回り込み、10m上の潅木で登攀を終了した。

 

目の前にもう壁はない。そしてあの強烈な重圧も・・。思わず声を上げた。
同時に色々な感情が一気に押し寄せ、不思議な感覚が体を廻った。全ての苦悩が突然、最高の幸せへと変わったのだ。

D滝は私にとって、日本で最も険しい場所に存在する最も美しい滝。そんな滝に、一筋のラインを引けた喜びは、とても言葉では言い表せない。

壁に取り付いている間は、命と完登を天秤に掛けられているような気分だった。諦めれば命は救われるかもしれないが、完登の喜びは得られない。逆に完登を目指せば、命を落とすかもしれない。
そんな葛藤を抱きつつも、自分の意志を貫き通すため、体は一歩一歩上へと向かっていった。

最大の挑戦を終え、D滝を見下ろす心境は以前と違っていた。そこにはもう未知はなく、親しみさえ感じられる。剱沢大滝との融合を果たせたということだろうか・・。

今回D滝の登攀をすんなり成功させることができたのは、先人の果敢なトライが可能性の一端をこじ開けてくれていたからだ。
それがなければ、さらに苦しい登攀になったのは間違いないし、もしかしたら挑戦すらできなかったかもしれない。
先人の勇気ある行動に敬意を表したいと思う。

D滝の登攀に約4時間を費やし、時刻は14時を回っていた。急いで先に進むことにする。
腿までの容易な渡渉で右岸に渡り、前回同様C滝とB滝をまとめて側壁トラバース。A滝は川原状の釜に降りて左壁を直登(Ⅳ)。2m滝の段差をカム支点のエイドで越えると、ビバークテラスのあるリッジに辿り着いた。
前回あったスノーブリッジは消失し、側壁に巨大なスノーブロックが残っているだけだ。奥の6m滝が登れそうなことを確認してから、リッジ上のテラスに上がった。

最大の核心を終えて随分と気は楽になったが、まだいくつかの課題が残っている。しかもそれなりにプレッシャーを感じる課題だ。
まだ気を抜くわけにはいかない。全ての力を出し尽くし、悔いの残らない遡行にしたい。

 

10月29日(快晴)

6m滝を直登するため、ラバーソールを履いてスタートすることにした。
崩れ落ちそうなスノーブロックの脇を足早に通過し、空身で左壁に取り付く。思ったより悪く、ツルツルに磨かれた岩肌はラバーソールで正解だった(Ⅳ+)。

そのまま廊下に突入していく。前回は全て左岸から巻いてしまったが、今回はできる限り水線通しを狙いたい。
三角の巨岩を携える2m滝は、右岸のチョックストーンから這い上がり、遠目に通過困難に見えた1m滝は、左岸の磨かれた小リッジから越える。
谷は右曲し、雪渓が谷を覆う。潜るしかない。右壁伝いに容易に抜けられるかと思ったが、そう甘くはなく、巨大な釜を持った3m滝に出口を塞がれてしまった。

見た瞬間、頭をよぎったのは「敗退」の2文字。両岸磨かれた側壁はとても登れそうに見えない。出口を目の前にして、戻って大高巻きをしなければならないのか・・。

唯一可能性のある左壁の浅いバンドに、最後の望みを託して取り付く。見た目よりしっかりしたバンドだが、滝身を目前にしてブランクセクションが現われた。明らかに厳しい。
普通なら諦めるところだが、下が釜なので、駄目元で強引に突っ込んでみることにした。

砂利の乗ったスラブにずり落ちそうになりながら、隠れホールドを探り当て、滝身のチョックストーンまで残り1mの位置まで何とか近付く。
ただ、この先にホールドは皆無で、未だに登攀の確信が持てない。

とにかく、ザックを背負っていては不可能。ということで、壁から剥がされそうになりながら片手でザックを降ろし、渾身の力でチョックストーンの隙間に向かって投げ込んだ。
しかし、辛うじて手前に引っ掛かっただけで、今にも転がり落ちそうな状態。あわてて足を投げ出し、大開脚でザックを支えてさらに奥へと押し込む。

空身になればこちらのもの。バック&フットでチョックストーンに乗り移り、隙間を這い上がって滝上に出た。
すでに体中砂利まみれだ。ただ、そんなことを気にしていられないくらい、一動作ごとが際どい登攀だった(Ⅴ+)。

不可能の確率が高いと踏んでいたこの廊下を突破できたのは、かなり嬉しい成果だった。
冒険性ではD滝の登攀までとはいかないが、登攀の悪さではそれに勝るとも劣らない。

雪渓トンネルから解放され、左岸に渡渉すると、そこは前回の巻きで懸垂下降をしたハングの下だった。この先にあったスノーブリッジは完全に崩壊し、今はその残骸が谷に転がっているだけだ。
タビに履き替え、右岸側を進むことにする。前回とは違う滝の登攀があって面白い。谷幅が広いだけに、通り道を変えるだけで印象もがらりと変わる。

8m滝の横を通り過ぎると、再び廊下に入っていく。10m滝を右の穴から抜け、前回巻きに入ったポイントに出る。
水量が多くて渡渉が困難だったとはいえ、廊下が深まるこの先を確認せずして、巻いてしまったのは心残りだった。
ここの潜入も今回自分に課していたノルマの一つだ。右岸に渡渉して奥へと進む。

小滝の連瀑から谷が右曲。手前からは隠れて見えなかったその場所には、弱点のない3m滝が怒涛の勢いで水を落としていた。
右岸のハング壁はボルトを使用すれば登れるかもしれないが、巻けるのにそこまでする必要はない。

10m滝の下まで戻って、左岸の崩壊地から巻くことにする。予想通り、前回よりも容易な巻きになった。20mの懸垂下降で谷に戻り、先ほどの廊下の出口を確認しにいく。まだ奥に続いていた可能性があるからだ。
しかし、3m滝の上部には4×8mの斜瀑があるだけで廊下は終わっていた。これでこの廊下の全てを把握したことになる。

相変わらず美しい8m滝を左岸から巻き、前回巻いた4m滝を左の岩の隙間から容易に越える。最後の2m滝は釜に思い切り飛び込み、光溢れる広河原に飛び出した。
デジャブのような明るいフィナーレの再来。ただ、その輝きは以前より遥かに増しているように見えた。

 

沢全体に散らばるパズルのピースを拾い集めるかのように、残された全ての可能性に挑み、自分だけの新たな絵を創り上げることができた。
自分でも信じられないくらいの会心の遡行だった。剱沢にもう未知はない。そして、もうこれ以上の遡行もできない。

「最良のラインを最高のスタイルで登る」・・それが沢登りにおける私のこだわりだ。
今回の遡行では、今までになく大きなスケールで、それを具現化することができたと思う。

死地に飛び込んででも叶えたい欲求。それを満たす過程には数々の試練が待っている。自分自身と対峙し、それらを乗り越えていかなければならない。
沢に秘められし未知の空間で、その闘いが行われる時、自己の世界はさらに大きな広がりを見せる。それは一つの「宇宙」とも言えるものだ。自分だけのそれを感じることにこそ、沢登り最大の意義がある。

前人未到という結果は単なるおまけでしかない。究極の目的を果たし、私の中の剱沢遡行はここに完結した。

登山道の大崩壊
≪ 登山道の大崩壊 ≫
十字峡側からの写真。
振り子トラバースで越えた。
剱沢大ゴルジュの遠望
≪ 剱沢大ゴルジュの遠望 ≫
2週間前とは異なり、木々は
紅葉に彩られていた。
3m滝の手前にて
≪ 3m滝の手前にて ≫
前回ほどの水量ではないが、やはり
右壁のクラックには取り付けない。
I滝48m全景
≪ I滝48m全景 ≫
右の草付地帯から落ち口に向かって
真っ直ぐ左上するのが新ルート。
I滝正面
≪ I滝正面 ≫
豪快に瀑風を放つ。
虹が掛かって美しい。
I滝右面
≪ I滝右面 ≫
前回の写真と比べると、明らかに
水量が違うことが分かる。
新ルートを見定める
≪ 新ルートを見定める ≫
一段上の草付テラスから
バンドを左上するラインを選んだ。
1P目前半
≪ 1P目前半 ≫
草付バンドをトラバース。
中間支点はほとんど取れない。
I滝下部
≪ I滝下部 ≫
一直線に落下した水が釜に
叩き込まれている。
2P目の凹状スラブ
≪ 2P目の凹状スラブ ≫
すっきりした岩で、快適な
登攀が楽しめた。
2P目の途中にて
≪ 2P目の途中にて ≫
登ってきたスラブを見下ろす。
I滝上部
≪ I滝上部 ≫
磨かれた岩肌を、滑らかに流れ落ちる。
I滝上の様子
≪ I滝上の様子 ≫
H滝が、トイ状の流れから2m滝と
なって落ち口に吹き出している。
H滝8mの上部
≪ H滝8mの上部 ≫
4m斜瀑からトイ状の流れを
介して下の2m滝に繋がる。
3P目の登攀
≪ 3P目の登攀 ≫
薄い潅木を伝って登っていく。
D滝遠望
≪ D滝遠望 ≫
大ゴルジュの奥に潜む幻の滝。
その名に相応しい存在だ。
ゴルジュ深部への下降
≪ ゴルジュ深部への下降 ≫
側壁トラバースを終え、懸垂下降をする。
特に緊張を強いられる場面だ。
空への憧憬

≪ 空への憧憬 ≫
地底から仰ぎ見る空は
格別に美しかった。

凄まじいゴルジュ1
≪ 凄まじいゴルジュ1 ≫
こんな場所にいるのが
不思議な気分だ。
凄まじいゴルジュ2
≪ 凄まじいゴルジュ2 ≫
落ちたら戻れない。
行き着く先はI滝・・。

E滝8m
≪ E滝8m ≫
D滝の前衛。この奥には素晴らしい
空間が待っている。
光の谷
≪ 光の谷 ≫
岩の切れ間から光が差し込み
深い谷に明りをもたらす。
幻想的な世界に心奪われた。
D滝40m
≪ D滝40m ≫
下から見るD滝の威圧感は
半端ではない。
D滝右壁全景
≪ D滝右壁全景 ≫
右下のクラックから取り付いて左上。
黒い凹状部を縫って落ち口に抜ける。
1P目のスタート地点
≪ 1P目のスタート地点 ≫
ザックの位置から奥に向かって
トラバースする。右の垂壁に連なる
レッジは、敗退したライン。
1P目終了点にて
≪ 1P目終了点にて ≫
D滝の釜を見下ろす。
左のハング壁の上部が緑の台地だ
D滝接写
≪ D滝接写 ≫
完全なる岩壁を携えた美しい流れ。
バンドから懸垂下降
≪ バンドから懸垂下降 ≫
緑の台地の懸垂ロープを回収する
ために再び釜に降りる。
2P目の悪壁
≪ 2P目の悪壁 ≫
2回目の登攀の登り返しにて。
D滝には似つかわしくない汚い壁だ。
3P目の登攀
≪ 3P目の登攀 ≫
スラブを直上してトラバースに入る。
なかなかの高度感だ。
3P目の登り返し
≪ 3P目の登り返し ≫
乾いた岩が心地よい。
最上部にて
≪ 最上部にて ≫
緑の台地は遥か下方だ。
この滝の高さが30mどころでは
ないことが良く分かる。
B滝7m
≪ B滝7m ≫
バンドをトラバースしていく。
2回目なので易しく感じた。
 
2m滝とビバークリッジ
≪ 2m滝とビバークリッジ ≫
左のクラックからエイドで越える。
奥のリッジ上にビバークテラスがある。
 
6m滝
≪ 6m滝 ≫
ツルツルに磨かれたスラブ。
空身&ザック吊り上げスタイルで登った。
 
上部廊下1
≪ 上部廊下1 ≫
ここを抜けられるかどうかは
水量と雪渓の状態次第だ。
 
雪渓出口の3m滝
≪ 雪渓出口の3m滝 ≫
荒れ狂う釜を携え、行く手を遮る。
一見して通過不能。
 
3m滝左壁
≪ 3m滝左壁 ≫
浅いバンドラインに活路を見出す。
チョックストーンに移るところが核心。
 
8m滝
≪ 8m滝 ≫
右岸を進む場合は、眺めながら通過
できる。前回は水流右を直登した。
 
上部廊下2
≪ 上部廊下2 ≫
ここから再び廊下に入っていく。
右に曲がったところに10m滝がある。
2m滝
≪ 2m滝 ≫
ここから廊下の奥に潜入。水量が
多い場合は、手前の渡渉が厳しい。
 
隠された3m滝
≪ 隠された3m滝 ≫
怒涛の勢いで水を落とす。
通過は厳しく、戻って巻くことにした。
 
8m滝
≪ 8m滝 ≫
広い釜を持つ開放的な滝。
ゆっくりしたくなる場所だ。
 
          
最後の2m滝手前の釜
≪ 最後の2m滝手前の釜 ≫
光に導かれ、釜に飛び込んだ。
 
広河原
≪ 広河原 ≫
明るいフィナーレの再来。
ただ、落葉で景観は著しく変化していた。
遡行図
≪ 遡行図 ≫
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I滝登攀ルート図
≪ I滝登攀ルート図 ≫
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D滝登攀ルート図
≪ D滝登攀ルート図 ≫
画像をクリックするとPDFで開きます。

【 遡行データ 】

  • 対象 : 北アルプス 黒部川 「剱沢」
  • 行程 : 「剱沢」遡行~「近藤岩」から登山道「内蔵助谷」経由で下山
  • 日程 : 2011/10/26~29 3泊4日
  • 形態 : 単独
  • ギア : 三つ道具(カラビナ×14・安環付カラビナ×5・ハーケン×12)、スリング、8mm40mロープ、6mm40mロープ、3mm40mロープ、ソロイスト、MEマスターカム#00~3まで各1(計5本)、アブミ、ボルト×12、ラバーソール
  • コースタイム :
  • 10/26  扇沢(7:30)…(関電トロリーバス)…黒部ダム(7:50)-内蔵助谷出合(8:40~8:45)-(9:30~9:40)-(10:40~10:50)-崩壊地(11:15~11:25)-通過終了(12:15)-十字峡(12:25~12:40)-入渓(13:30)-剱沢平(14:10)△BP
  • 10/27  △BP(7:15)-I滝下(8:00~8:20)-1P目登攀開始(9:20)-3P目終了(13:00)-焚き火テラス(13:40)△BP
  • 10/28  △BP(6:45)-緑の台地(9:15)-D滝下(10:30)-上(14:20)-A滝上(15:20)-左岸リッジ上テラス(15:50)△BP
  • 10/29  △BP(7:00)-雪渓出口(8:00~8:15)-最終廊下の巻き終了(10:00~10:15)-広河原(11:00~11:50)-ハシゴ谷乗越(13:30~13:45)-内蔵助平分岐(14:30~14:40)-黒部川出合(15:35~15:45)-黒部ダム(16:45)…(関電トロリーバス)…扇沢(17:25)

 

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